ヒストリカル
ブラジルの歴史は500年前まで遡る、1500年代に、ポルトガルの植民地となって以来、1930年代後半までは、ブラジル経済は第一次産品の輸出に依存してきた。
1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルが南米大陸のブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。
以後ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。
ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀と共に資本の本源的蓄積過程の原初を担った。
一方、1509年のディウ沖海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズと更に東進したポルトガル人は、1541年~1543年には日本へもやってきた。
ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。
ポルトガルは、自らの帝国主義政策に基づき、ブラジルを原料供給地と位置づけていた。
統計を見る限り、ブラジル経済は安定的に成長したとは到底言い得ない。1947年以降、1人辺りのGDPは伸びてはいるが、1995年時点では、4,630ドルに過ぎなかった。1968年から1973年にかけて、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成したが、第一次オイル・ショックによって、外貨準備は払底し、常に、累積債務問題がブラジル経済の足枷になってきた。毎月、数百パーセントのインフレーションは当然であったし、貧困層の人口は鋭角的に増えた。北東地方のみならず、大都市圏ではスラム街が形成されていった。
2008年現在、BRICsの一角にまで、ブラジル経済を変貌させたのは、2003年に大統領に就任したルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァの存在が大きい。
ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ(Luiz Inácio "Lula" da Silva, 1945年10月27日 - )は、ブラジルの左翼政治家、第35代大統領(在任:2003年 -)。通称ルーラまたはルラで、日本のマスコミではルラと表記されることが多い。
労働党時代のルーラはサンパウロ州サン・ベルナルド・ド・カンポ(São Bernardo do Campo)およびヂアデマ(Diadema)の鉄鋼労働者組合の長(president)に任命される。1978年にも再選され、その任期中に彼は軍事政権時代長きにわたって行われてこなかった、大規模なストライキを含む主要な組合行動を組織する。
社会政策としては「飢餓ゼロ計画」を立ち上げ、貧困層への支援を積極的に行っている。その一環として2003年、貧困層への家族手当である「ボルサ・ファミリア」を創設した。これは「ボルサ・エスコラ」(学童基金)・食糧補助・ガス助成金・食糧カードといった4つの公的扶助制度を統合したもので、月間所得が50レアル以下(16歳以下の通学中の子供がいる場合は100レアル以下)の貧困世帯に対し1ヶ月50レアル、通学中の子供1人につき15レアルの家族手当を支給する制度である。「飢餓ゼロ計画」では他に廉価で食事を提供する「大衆レストラン」の設置や食糧配給なども実施されている。また、貧困対策としては最低賃金の引き上げも実行した。
経済効果
労働者党出身とはいえ、急進的な左派路線は採らず、基本的には現実的な経済政策を採っている。2002年の大統領選挙では、過去の大統領選におけるルーラの左翼的な主張から市場に警戒感が広がり、対ドル市場ではレアル安が進んだ。しかし政権が発足するとルーラは公務員年金改革による財政支出の削減などを行い、カルドーゾ政権の財政健全化路線を踏襲したため、その懸念を払拭した。実際、IMFの目標値を超える財政黒字を達成し、2009年にはIMFに対する純債権国となっている。また、インフレ抑制にも成功している。
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